募金嫌い
たった100円でアフリカの子供達が何人助けられるか知っていますか?なんてふざけた事抜かすアフォがまだまだ多いです。100円である特定の病気を予防するサプリメントを○人分準備できるって、いやそれどんだけ限定された分野で助けるんだよ、と。そこだけ助けてどうするつもりなんでしょうか。それら諸々全て揃えて一人を健康で文化的な最低限度の生活水準まで引き上げるために総額いくらかかるのか算出してみて欲しいものです。確実に100円じゃ一人も救えませんから。
そもそも命に対しての考え方が違うのに、どうしてこちら側の感覚を押し付けようとするのか不思議に思います。確かに自分の子供が死ねば、ご両親は悲しみに暮れるでしょうが、向こうのご両親は翌日にもなれば結構ケロッとしている、なんて話も聞きます。あくまで多少死ぬのは織り込み済みなのです。自然界でも、大量に産んでいくらか生き残ればいいやという考え方と、少数を産んで確実に育てきるという考え方が存在していますが、人間もそうなのです。そこを全部助けようとするからバランスが狂います。そういう現地の文化って一番の前提に置くべきではないでしょうか。
仮にアフリカの人々が、心から子供たちを助けたいと頼ってきたとして、なんで無計画に産めや増やせやしてきたやつらの尻拭いを私がしなければならないのかという話になります。例えば、アパートの隣の住人がパチスロ狂いだとして、生活が苦しそうだからと勝手に判断して援助しますか?しかもこの手の輩は、一度助けると延々とこちらをあてにし続けるのが常です。そういう無計画な人が淘汰されるなら、その方がまだ将来につながるようにさえ思います。
必要なのは延命による現状維持ではなく、その状況へ陥った構造からの脱却です。つまり、教育しかありません。物質的な支援には継続性が無く、不断の努力で継続したとしても支援ありきの構造が生まれるだけです。しかし、構造からの脱却は並大抵の労力では成し遂げられません。学校を作り教育を施そうにも、では誰がそれをするのか。誰がその教育者の生活を支えるのか。現地では働き手である子供を学校へ通わせるための仕組み作りは?そしてそれらが恒久的に維持されるための仕組みは?
それに比べ募金による延命的支援は非常に楽です。お金を集めて送るだけでいいのですから、面倒を見続ける必要がありません。それでいて募金を募る側も募金する側もインスタントに大きな「やってる感」を得られるわけですからまたタチが悪い。
決して貧困構造を肯定し、弱者は死すべしなどという北斗の拳な世界を望んでいるわけではありません。社会的なセーフティーネットは必要です。しかし今回のケースは募金なのです。人様の財布から金を恵んでもらおうというならば、相応の説得力が必要だと思います。少なくとも私は、上記の理由で1円たりともアフリカにお金を送ってやろうとは思いません。人の善意に付け込み、善意の名の下に無自覚な文化侵略をするという、まさに一番困った無能な働き者状態です。典型的な、魚ではなく魚の取り方を、の話なのですが、駅前の彼ないし彼女らはそのあたりどう考えているのやら。