「推し」という言い回しを考える

オタク系コンテンツよりそれを消費しているオタク自体の方が好きだったりします、みたいな言い方をすると、趣味は人間観察です、なんて臆面もなく言っちゃうやや痛めな人みたいで噴飯モノなのですけれど、私が大学生くらいの頃にはオタクを自称しても迫害されない時代に日本が突入していたものですから、深夜アニメの存在を知って「うはw俺超アニオタww」みたいな連中が雨後の筍が如くまあ湧くわ湧くわの大フィーバー中でして、そういう連中を目の当たりにしつつも「俺はこいつらとは違うぞ」というメンタルを保つために「オタク自体を俯瞰し学術する」みたいな上から目線の理論武装がどうしても必要だったのです。
東浩紀や斎藤環、岡田斗司夫、大塚英志あたりにハマったりね。
結果として、方向性が大暴走してこんなのを書いてしまったりするに至りました。

そういう残念なバックボーンがあるという前提での話ではありますが、最近ことさらに「推し」というワードが気になります。
私の記憶では、確かアイドルオタク界隈で使われていた言い回しで、AKB旋風とともに世間にも浸透していった、そんなワードだったような気がします。
言葉なんてのは生き物みたいなもので、時代とともに廃れる言葉あればどこからか生まれてくる新語があり、常に新陳代謝をしています。
だから、その言葉を使っていること自体にそこまで重大な意味が必ずしもあるかといえば、おそらくそういうわけでもないのでしょう。
しかしそれでも、その言葉尻を捕まえて揚げ足取りみたいなことをしたくなる程度には私の興味を引くのです。

というわけで前置きが長くなりましたが、オタク系の人たちがこの「推し」なる言葉を使うことが、オタク文化的文脈においてどんな意味があるのか、ちょっとこじつけてみようかと思います。


「推し」の使われ方について改めて確認

端的に言えば、好きと言い換えてほぼ問題ないように思います。
仮に私が「花鳥玲愛推し」と言った場合、「私は花鳥玲愛が好きです」とほぼ≒の意味合いになりそうです。
なお、「だったらそう言えばいいじゃん」というのは老害の発想であり、それを口にした瞬間この手の言論に参加する資格を喪失しますので、絶対にやってはいけません。
新陳代謝の否定とは、すなわち死そのものでありますが故。


「推し」という言葉のニュアンスについて

推薦とか推奨とか、「推」という字には「オススメ」という意味合いが多分に含まれています。
この点が私の興味のひいてやまない一番のポイントです。
「推す」つまり「オススメする」という行為には、当然ながら自分以外の誰かが必要となります。
その相手に対して自分はその対象を推薦する、推奨するという立場を表明するわけです。
対して「好き」という言葉の場合、自分とその対象だけで話が完結します。
相手を必要としないのです。
自分以外の誰かの存在は、この「推し」という言葉を特徴づけているのではないかと思います。


動物化していたゼロ年代のオタクたち

さて、ここで東浩紀の話を持ってきます。
彼曰く、ゼロ年代のオタクたちを特徴づけていたのが「動物化」でした。
多分何言ってるか分からんと思いますので、説明します。
まず説明したいのが「欲求」と「欲望」についてです。
彼の言うところの欲求とは、一個体で完結するものを指します。
腹が減った⇒食事をする、グッズが欲しい⇒購入する、みたいな感じです。
一方で欲望とは、自分以外の誰かに羨ましがられたいという、他者を必要とします。
誰かに欲求されることを欲求するというと、ちょっとしたトートロジーのようではありますが、まあそんな感じです。
グッズの購入で例えましょう。

欲求:玲愛のタペストリー出とるやん!欲しい!買うわ!
欲望:あの人のタペストリーコレクション画像のいいね数すごっ!俺もああなりてえ!買うわ!

まあそういう構造なので、欲望には果てがありません。

そしてゼロ年代のオタクたちの特徴として、アニメが見たい! グッズが欲しい! という欲求が瞬時に満たせるインターネットというインフラが整備されてしまったがために、「欲求⇒充足」で個々に完結してしまう点を指摘した東は、彼らを「動物化している」と評したわけです。
決して、森に入って野生化してウホウホやろうとか、そういう話ではありません。


「推し」は人間回帰?

さて、では「推し」の話に戻ります。
先述の通り、「推す」ためには自分以外の他者を必要とします。
ゼロ年代に他者を必要とせず自己完結してしまった、動物化してしまったオタクたちが、なぜかまた他者を必要としだしたのか。
またこれは、動物化したオタクたちが再び自分以外を必要とするいわば「人間化」を果たした姿なのか。
そういう視点で眺めたとき、この「推し」という言葉に私がどれだけ興味をひかれているのか、お察しいただけるでしょうか?

ゼロ年代のオタクたちを特徴づける言葉の一つに「萌え」というのがありました。
二次元美少女に対する性愛的な感情の高ぶり全般を指す言葉、くらいに定義しましょうか。
思えばこれも大変に自己完結していて、実に動物的ですね。
個々人が個々人の趣味嗜好でもって自己の感情の高ぶりを表明しあう、第三者的には地獄のような光景でも、当事者たちにとっては天国かもしれません。
それに対して「推し」はどうか。
先に「推すことで他者を必要としだした」と述べましたが、そのあり様は異なります。
他者の欲求を欲求する欲望に対し、「推し」が求めるものは何か。
少なくとも、「え、あいつ玲愛推しなん? いーなー、俺も玲愛推したいっ!!」とはなりませんよね?
何のひねりもありませんが、おそらくは「共感」あたりでしょうか。
推し、ないしオススメって、極めて否定される可能性が低い自己主張です。
他人の「好き」やそれに基づく「オススメ」をわざわざ否定するほどだれも得しない非生産的なコミュニケーションってありません。
そのため、非常に効率的に共感や肯定的意見を集めやすい、という見方は可能でしょう。
もしかすると、「好み」「個人の感性」という逃げ道を用意することで、相手との立ち位置を確認しつつもどちらが上かという戦いには発展しないよう行き着いた方法が「推し」の表明だったのかもしれません。


おわりに

なんやかんや言っても、結局はこじつけなんです。
たかが言葉、たかが言い回し。
そこにどれだけ意識の変化が込められているか、そんなんはがっつりフィールドワークでもしない限り見えてきません。
昔の熱意があればこれに「他者を介してしか自身の好きや価値基準を持てない軟弱なオタクたちよ、もっと確固たる、他者に依存しない自己で完結した価値観を持つべきではなかろうか」みたいに結論付けるべくいろいろ策を弄したのでしょうが、あの頃のあの情熱は目下行方不明です。

だから現時点では、やってることは「ワンピースの正体大考察!」みたいなやつと大差ありません。
いや、もっといえば「となりのトトロ驚愕の裏設定!メイとさつきは死んでいた!?」レベルの話です。
でもたまにはそういうのも楽しいよね、みたいな、まあそういう。


2020.11.29