惣流・アスカ・ラングレーはツンデレか

昔から整理整頓が苦手な人間なので、いろんなものがいろんなところから出土します。
多分最初にルール決めるのが下手すぎるんだと思います。
やっているうちに「あれ、こうした方がよくね?」みたいなの連発するので、最初と今でやりかた全然違うやん! みたいな現象頻発で。
そういうことしていると、昔使っていた記憶媒体が出てきて変なファイルが入っていたりとか、もはや完全に冒険者的な発掘作業に近いなにかです。
それで今回出てきたのが、学生時代に書いたなんか気合入った.docファイル。
.docxじゃないところに年季感じます。
私の記憶が正しければこいつは10年前、学生時代通じて一番一生懸命書いた提出先のないレポート的な何かです。
放っておくとまたどこか行ってしまいそうですし、なんか意識高いオタク的なアテクシに酔ってた時代あったぞという戒めも込めて晒してしまおうかと思います。
セルフ羞恥プレイ? そんなんこんなサイト始めた瞬間からずっとですよ。


はじめに

 オタク、オタクと蔑まれ、教室の隅のほうで辛い思いをしていたのも今は昔、オタクに対するマイナスイメージもだいぶ薄れてきた印象の強い昨今である。これには「千と千尋の神隠し」のアカデミー賞長編アニメーション部門受賞をはじめ、日本のメディア芸術が世界で高く評価されていると日本の一般層にも認知されてきたことや、「電車男」などのオタクを扱った作品の商業的成功が大きく影響していると思われる。世間から見たオタクというものが「何をしでかすかわからない犯罪者予備軍」から「少し特殊な趣味を持った個性的な隣人」になったとも言えるかもしれない。
 そういう事情もあってか、「新世紀エヴァンゲリオン」が新劇場版のヒットなどで、今再び脚光を集めている。当時熱くなっていた世代はもちろん、今回の新劇場版から入り、テレビ版のDVDに手を出す若年層も多い。その中で注目したいのが自身を「エヴァオタ」と称する集団である。これはテレビ版の放送当時から存在はしていたと思われるが、現在は放送当時小学生かそれよりも年少であった若年層にも多く見られる。また、ブログやSNS、BBSなどに書き込まれる感想等に見られるようになったのが「レイは俺の嫁」や「アスカのツンデレ具合が最高」といったようなものである。ここには後述する東浩紀の指摘したデータベース型のキャラクター消費というものが見て取れる。そういう意味で、エヴァンゲリオンという作品は、作品自体を見るよりも、それを消費する消費者を見るときに非常に面白い作品である。
 ここで抱いた素朴な疑問なのだが、アスカはツンデレなのであろうか。ツンデレとはネット上で発生した言葉であり非常にあいまいな部分を含む概念なのだが、ここで定義するならば、ある同一対象に対して強気であったり高慢であったりする「ツン」と、好意的であったり恭順的な態度を示したりする「デレ」とが時間的推移や特定シチュエーションによって入れ替わるというギャップを持つキャラクター性の総称である。しかし、アスカは同一対象にそのような変化を見せていたであろうか。そのような描写がなされていただろうか。にもかかわらず、アスカがツンデレであると解釈する消費者が後を絶たないのはどうしてなのだろうか。今回はこの「アスカはツンデレである」という認識について、オタク文化というものや、「萌えブーム」以降のオタクたちの変移について、本田透が提唱した「恋愛資本主義」という概念に触れながら考えていきたい。なお、本稿が惣流・アスカ・ラングレーというキャラクターがいかに素晴らしいかをしたためたものではないという点には注意していただきたい。


かつての「強い」オタク

 自分が「オタク」であるという人も「そうでない」という人も、少なくとも「オタク」という集団が一般人(オタクではない人)とは違った価値観や行動様式を持っているという事は今の昔も感じている事だろう。それではオタク独自の価値観や行動様式とはどのような物であり、どのような点がオタクではない人の価値観と違っているのだろうか。それについて岡田斗司夫は次のように述べている。

 この本を書いたときに、私の心の中には強烈に一つのオタク像がありました。マンガやアニメやゲームが好きなところは、ただ単に表層面にすぎません。ミリタリーが好き、モデルガンが好きという人を含めて、何が好きかというのは表面の第一層にすぎない。その底の層に、全員共通している何かがある。それが何かといえば、「自分が好きなものは自分で決める」という強烈な意思と知性の表れだと考えています。私がオタクと言うときには、この意味で使っていたわけです。(岡田「オタクはすでに死んでいる」)(pp.58-59)


 この「自分で決める」という強力なメンタリティこそが「一般人」とは違う「オタク」独自の行動様式や価値観の根幹であり、またこれまでとは違う「オタク」という人種を生み出した理由となったものだと言えるだろう。ところが90年代~ゼロ年代に入り、この「強い」オタク像と言うものが急激に変化を始める。それは主に、物語の消費様式を理由としたものだった。(そのためこの変化はあくまで「物語」を消費するオタクに限定したものであり、そもそもはその様な「オタク」のみが限定的に「オタク」として認知されてしまったことも問題であるが)そしてその新しい消費形態を、データベース型消費という。


「データベース」的オタク

 オタク以外の「一般人」が小説やドラマなどの「物語」を読む、または見るなどした時、どのような消費形態(分かりやすく言えばその「物語」の何に対して価値を感じるのか)を取るだろうか。恐らくこの質問をオタク以外の人にした場合、多くは「質問の意味がわからない」という答えが返ってくるだろう。ほとんどの「一般人」は「物語」を一つの分解不可能な物と考え、その「物語」全体に対して「価値」を感じている。つまり「ある設定(現実世界やSF、ファンタジーなどの世界観)の中のある人間関係に置かれたある登場人物(キャラクター)にまつわるあるストーリー」全体を消費しているのであり、例えば「私はこの登場人物が好き」というような感想があっても、その時この「私」の中には、まず前提条件として「物語」という作品の全体像が想像されており、「物語」の構成要素である「登場人物」自体が独立して想像されているのではない(少なくともそれが主流ではない)。それに対して(最近の)オタクの物語に対する消費の様式はどのような形だろう。オタク、特に90年代後半からゼロ年代にかけてのオタクたちの消費形態をもっともよく表した言葉に「萌え」、特に「キャラ萌え」というものがある。主にオタク系のコミュニティなどで見かけられた「(主に特定のキャラクターに)萌える」といったものはこの「キャラ萌え」と考えていいだろう。このようにオタク達が「キャラクター」に「萌え」ている時、もしくは何らかのキャラクターが「好きだ」といっている時、彼らの中にそのキャラクターが登場する「物語」が想像されているとは思えにくい。より分かりやすい例を出すと、彼らが「シャア・アズナブル」や「綾波レイ」という単語を出す時、彼らの頭に中に前提条件として「機動戦士ガンダム」や「エヴァンゲリオン」が考えられているとは思えないのだ。つまり彼らは「キャラクター」という「物語」の構成要素をそれ単体で理解できる様に自律化し、「物語」から切り離して消費していると言って良い(なぜ90年代以降のオタクのみがこの様な消費形式を取るようになったかは多くの議論があるが、ここでは割愛する)。このような「物語」の構成要素(特に最近ではキャラクター)を分離させ、それ自律的に消費するというオタクの消費形態を東浩紀は「データベース消費」と名づけた。さらに東はその行動形態が「オタク」という消費者だけでなく「物語」の送り手である「制作者」にも影響を与えているとしている。

 キャラクターの自律化は、コンテンツの制作者にとっては、キャラクターの魅力とはあるていど独立して測られていることを意味している実際に現在のオタクの市場では、物語に人気がなくてもキャラクターに人気があることがめずらしくないし、その逆もある。したがって、そこでは多くの作家たちが、物語内部での必然性や整合性からとりあえず離れ、作品の外に拡がる自律したキャラクターの集合を一種の市場と見なして、そこでの競争力を基準にキャラクターの設定や造形を個別に設定するように変わっていくことになる。ひらたくいえば、物語が要求する人物像の構築以前に、まずキャラクターの類型の流行を分析し(たとえば、二〇〇六年の前半であれば「ツンデレ」が流行しているなど)、そことの関係で「キャラクターを立てる」ことが作品制作の大きな課題となっていくのである。
(東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」(pp.39-40)

 つまりそれまでに登場した「それだけで魅力的なキャラクター」を分類、またはその構成要素に分解して整理した「キャラクターのデータベース」がオタク的作品の制作者達に大きな影響を与えているという事なのだが、ここで重要なのはこの「キャラクターのデータベース」が作り手だけでなく、その消費者達、強いてはオタク社会全体にも大きな影響を与えているということだ。「キャラクターのデータベース」を制作者が効率良く「売れる」キャラクターを作るために使った場合、当然オタク市場にはこの「キャラクターのデータベース」の影響下に作られた制作物が氾濫する事になる。そうなると消費者は、当然この「キャラクターのデータベース」をより理解、吸収することになり制作者と同じ「キャラクターのデータベース」を共有することになる。「このキャラクターはこんな格好でこんな属性だからきっとこんな性格なんだろう」という、ある意味での「お約束」がオタク全体で共有されることになるのだ。さらに消費者が「キャラクターのデータベース」を理解し、大きな影響を受けている事を知った制作者は、より安定した需要が見込める「キャラクターのデータベース」に沿った制作物を作るようになる。この相関関係によってオタク社会全体で共有され、その影響力を強大化した「データベース」こそが、現代のオタクの行動様式や価値観の大本といえる物だといえる。ここで思い出して欲しいのはかつてのオタクは「自分で決める」という強力なメンタリティを持ち、それを理由に当時、比較的軽視されていたアニメ・マンガ等を愛好してきたという点だ。それに対し90年代後半以降の「データベース」を共有し、それに依存するというのは、ある意味ではオリジナリティの喪失に他ならない。つまり「強い」はずだったのオタク達は「キャラ萌え」に端を発する「データベース」の台頭により、逆に「自分で決める」というこれまでのオタクを成立させてきた精神を喪失し、それまでとは全く別物存在となったといえる。


恋愛資本主義の流入

 ではなぜ「強い」はずだったオタク達はこうも容易く変化してしまったのだろうか。それにはオタクの世界に対する「一般人」的価値観の流入、特に「恋愛資本主義」的な価値観の流入が大きな意味を持っている事が考えられる。恋愛資本主義とは本田透の示した概念で、彼は「萌える男」の中で次のように述べている。

 70年代初頭、恋愛とは、貧乏で政治や社会に希望を失った若者が、絶望の果てに見出した閉塞的な世界だった。
<中略>
 空前のバブル景気によって、恋愛もまた大量消費システムに取り込まれ、消費のための商品になったのだ。このバブル時代には、「恋愛マニュアル雑誌」なるものが隆盛を極めた。男性誌では「ホットドッグプレス」がその代表格だ。若者は、メディアから「女にモテるためにはこういう髪型をしてこういう服を着てこういう話題を身につけて・・・」といった一連の「恋愛のルール」を刷り込まれ続けたのだ。
<中略>
 マニュアルに沿って自らをパッケージングし、ファッションやモテ趣味といった恋愛スキルを習得した男女が、ルールに沿った恋愛を演じながら消費を続ける・・・という一連の行動じたいが「商品化された恋愛」なのだ。(本田「萌える男)(pp.20-25)

 これはオタクではない、いわゆる普通の人の文化、行動様式ということになる。彼らは恋愛をすることに至上の価値を見出し、それを円滑に行うために一定のルールを設けている。そのルールにより忠実に従うことで、恋愛偏差値とでもいうべきものを上げることが彼らの消費原理なのだ。そしてここでそのルールを作っているのはテレビドラマやファッション誌といったマスメディアである。彼らの「こうするのがモテる、カッコいい、かわいい」というルールは実のところ、消費者により内側から生み出されるものではなく、上から降りてくるものなのだ。この点において、マスメディアと恋愛資本主義消費者との関係は極めて権威主義的ともいえるかもしれない。マスメディアは自らが作り出す流れに従って消費者が消費をするという間接的な支配欲を満たし、消費者は作られたルールに従うことで自分は恋愛資本主義における逸脱者(≒オタク)ではないという安寧を得る。自身の価値基準を他者に依存するという点において岡田は彼らを「自分の好きなものも自分で決められない人たち」としている。


ハイブリットの誕生

 この対立するべきオタク文化と恋愛資本主義の両者が一気に変容するにいたる契機となったのが個性や個人を重要視するようになった現代社会の風潮ではないだろうか。例えば教育現場においてはカリキュラムの変更が行われた。従来の詰め込み型のカリキュラムは子供に画一化を求めるものであった。恋愛資本主義に人々がここまで盲従する原因の一端はここにあるだろう。しかし、カリキュラムが見直され、いわゆるゆとり教育へのシフトがなされた。これは子供に多様性を求めるものであった。詰め込み教育においては、示される規範についていく限りアイデンティティは保たれていたのだが、ゆとり教育により突然「あなたはあなた個人でいい」と自由を突きつけられてしまった。これには日本におけるゆとり教育の失敗という側面もあるのだが、ここでは割愛する。これによりアイデンティティを喪失した人々が、再びアイデンティティを確立するために選んだ方法が自身のオタク化なのではないだろうか。日本のコンテンツ産業が世界でも高い評価を受け始めるとともに、宮崎事件以降のオタクへのネガティブイメージも薄れ、さらにオタク像というものがメディアなどによりステレオタイプ化されたこともあり、なろうと思えば「なってしまえる」存在になっていたのだ。オタクは何をしているか分からない得体の知れない集団ではなくなっていた。彼らから見ればオタク文化は下層文化であり、自己の邁進により自身を昇華させるものではなく、堕落による転落であるという点も見逃せない。
 さて、オタクに「なってしまえる」と言ったが、これが非常に重要な点である。「なってしまえる」というその主体はあくまで普通の人なのだ。恋愛資本主義に生きていた普通の人が、オタクに「なれる」状態にあるのだ。ここで恋愛資本主義の性質を思い出してほしい。彼らがよりカッコよく、美しく、かわいく、モテるようになるにはどうしていたか。そう、メディアに提示されるルールを忠実に守り、再現しようとしていたのだ。そういう方法論に生きていた人間たちがオタクになるにはどういう方法をとるか。その結果が、メディアにとりあげられるオタクのステレオタイプイメージをそのままなぞったようなオタク層の登場なのではないだろうか。恋愛資本主義は、表層的にはモテるためのルールを示す一方で、メディアへの盲目的な追従姿勢を刷り込んでいたのだ。このステレオタイプを目指す恋愛資本主義の流れを根底に抱えた新しいオタク層には、かつて岡田が「強い」と言った「自分の好きなものは自分で決める」ようなメンタリティの強さはない。むしろ、そこにオタクであるかオタクではないかという答えを求めるならば、彼らは少なくとも従来のオタクという概念には当てはまらない存在である。
 根底に恋愛資本主義を抱え、その作法でもってオタクになろうとした彼らは、両者のハイブリットであるといえる。これこそが新しいオタクの正体なのではないだろうか。繰り返しになるが、恋愛資本主義とは、恋愛を価値基準の頂点に置き、それを中心として消費を行う「一般人」の消費形態である。そしてその消費を通じ、よりカッコよく、かわいく、モテるように恋愛偏差値を上げていくために、ある種のルールを設定する。そのルールを作り出し、更新しているのが、テレビドラマや映画、ファッション雑誌といったマスメディアである。これを本田は「恋愛ゲーム」と呼んでいる。彼らは「マニュアルによって作られた恋愛ゲームに参加するために『モテ趣味』という与えられたルールを学習」し続けているのだ。この理屈でいけば、彼らはオタクにはなりえない。「好きなものは自分で決める」のがオタクであり、上から降りてくるルールに追従する彼らに、そういった行動原理は備わっていないからだ。そこにタイミングよく現れたのが「萌え」であり「データベース」なのではないだろうか。製作者と消費者との間で、消費者と消費者との間で共有されるデータベースが、上から与えられる価値観という点で、恋愛資本主義との共通の構造を持っていたためにマニュアル化することが出来た。この「データベース」が「萌え」るためのルールであり、「ゲーム」を楽しむための「マニュアル」になったのだ。彼らにとって、同じく上から渡されるデータベースという価値観(ありきたりなキャラやシチュエーションに萌えるという習慣)に依存するのはとても心地の良いものだったのだろう。


オリエンタリズムに見る普遍性

 マスメディアによって作り上げられた空想に大衆が食いついたことで、実像の方が空想化してしまうという事態に似た現象として、ヨーロッパにおけるオリエントの認識と、E・サイードのオリエンタリズムへの指摘を挙げたい。オリエントはヨーロッパの、特に美術の世界において、西ヨーロッパにはない異文明の物事・風俗に対して抱かれた憧れや好奇心などの的であった。そうしてオリエントに触れた、あるいはそれを題材とし、舞台とした作品が数多く作られたのだが、その中には実際のオリエントではない、恣意的に解釈された、ヨーロッパ人にとってそうあったほうが都合のよい空想のオリエントが生まれ始めた。それはいつしかひとり歩きを始め、「オリエントに関するヨーロッパの集団的白昼夢」と言われるまでに育っていった。このようにして、オリエントはヨーロッパ人によってより「オリエント化」されたのである。同じことが日本のオタクにも言えるの。日本のマスメディアがオタクを取り上げるときは、ネットスラングなどを多用するへんな喋り方をして、メイド喫茶に嬉々として通う、ロリコン趣味な男性である場合が多々見られるが、これはそうした方が分かりやすい、つまり大衆の持っているステレオタイプイメージと一致させる演出が求められているということではないだろうか。
 また、E・サイードはオリエンタリズムを「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」と定義している。西洋を恋愛資本主義者、オリエントをオタクと置き換えるとわかりやすいかもしれない。そうやってオタクはよりオタク化されていたったのだ。ここでのオタク化とはつまり、オタク=萌えを感じる人たち、の図式のことである。


エヴァのもたらした分離

 強いオタクと、恋愛資本主義の作法に従い、マスメディアによる「よりオタク化」されたステレオタイプイメージを「ルール」とする新しいオタクは、異なった規範を持ちながらも、分類としては同じ「オタク」というカテゴリであった。この状態が表面化したのが、エヴァンゲリオンの大ヒットなのではないだろうか。エヴァンゲリオンを見た者の反応として大きく二つに分けたい。一つが「君は綾波派?それともアスカ派?」というタイプ、もう一つが「あのラストシーンの解釈についてなんだけど、僕は~」というタイプである。かなり大雑把なわけ方で例外も多いだろうが、それらについて今回は割愛する。ここでは便宜上前者をキャラクター型、後者を物語型と呼びたい。エヴァンゲリオン以前において、アニメファンたちが集まってある作品について話すとき、キャラクター型の消費者も物語型の消費者も、同じ視点で話をすることができていた。しかしエヴァンゲリオンにおいてはそれが出来なかった。これまでのアニメの歴史の中で初めてといっていいほどに「ストーリーが分からない」という衝撃を持っていたからである。同時にこの作品は、公開から10年以上たった今でも同人業界において一ジャンルを保っているほどにキャラクターの立っている作品でもある。オタクたちがエヴァンゲリオンについて語ろうと集まったときの、このキャラクター型と物語型の消費者の間での温度差というものが、両者における消費の差異性を明確なものにしてしまったのではないだろうか。


概念的な変容

 ところで、本稿では「萌え」というものの定義を明らかにしていない。定義をしないのではなく出来ない、といったほうが正しい。2005年に流行語大賞のトップ10にランクインしていることからも分かるように、現在「萌え」という言葉は世間一般において、特に若者を中心にかなり認知されている。それにより、さまざまなシーンで語り聞かされるうちにローカライズが進み、それぞれがオリジナルとして「萌え」というものを形成しているために、全体としてよく分からなくなってしまっているように思われるのだ。
 かつての「強い」オタクの不文律として存在していたのは「オタクたちのルール」であったり「自分の好きなものは自分で決める」というメンタリティであった。それに対し新しいオタク層は自らをオタクたらしめるために「萌えを感じられるかどうか」という定義を持ち出した。なぜなら、メディアに取り上げられるオタク像とはたいていの場合、アニメのキャラクターに「萌え~」と叫んでいるお兄さんたちであるからだ。ここで、自身の定義を他者の規定に依存し、よりステレオタイプに近づいていこうという動きは、極めて恋愛資本主義的だといえるだろう。オタクであるかないかの定義を、萌えを感じるか感じないかで二極化してしまったがために、萌えさえわかればオタクであると認識できるようになったということは、言い換えればオタクになるためには萌えなければならなくたってしまったということだ。この新しいオタク層というのは、自身がオタクであるということをアイデンティティにまでしてしまっているために、萌えが感じられないとなると、すなわちアイデンティティの崩壊につながってしまう。ここで、オタクをアイデンティティとしたい人間がオタクであるために、萌えとは何なのかと考えるとする。萌とは、オタクたちが二次元のキャラクターを見て感じるものである。二次元のキャラクターはかわいらしい。つまり「萌え」とは「かわいい」の同義語なのだろう。そういった解釈が、マスメディアの先導などもあり発生したのではないだろうか。未知の新しい文化に対して、それを簡略化、ないし形式だけを導入するというのは、文化流入において普遍的に起こる現象である。例えば、近代ヨーロッパでプリミティブアートとしてのアフリカンアートに注目が集まり、アフリカの部族の仮面というものが盛んに輸入された時期があった。特定の部族内において仮面とは信仰の対象であったり儀礼的意味を持っていたりしたが、ヨーロッパには仮面という形(形式)だけが伝わり、信仰や儀礼的意味は消失し、ただのファッションになってしまった。オタク文化から輸入された「萌え」も同じように、単語として「萌え」という形だけは伝わったが、その意味するところはさまざまな解釈で伝わっていってしまった。少なくとも世間での使われ方を見るとそのように思われる。そういった過程を経て萌えが、さまざまな分野に浸透していった結果が現在なのではないだろうか。
 同様のことが「ツンデレ」という属性にも言える。ツンデレとは、先述のとおり、ある同一対象に対して強気であったり高慢であったりする「ツン」と、好意的であったり恭順的な態度を示したりする「デレ」とが時間的推移や特定シチュエーションによって入れ替わるというギャップを持つキャラクター性の総称である。この一見相反する態度を一連のパターンとして統合したという点で、ツンデレとは画期的な発見であった。クーデレやヤンデレといった派生パターンが多数出現しているのを見ても、それは明らかだろう。そしてこの発見はオタク文化内にとどまらず、一般にも広まっていった。だがしかし、これが必ずしも正しく伝わったかというと、そうではないように思われる。「ツンデレ」とはいわゆる属性だ。この属性とは、特定のキャラクター群において、共通する特徴を抽出していった結果として発生した分類である。その背後にあるのは大量の集積であり、つまりはデータベースである。それをいきなり、データベースを持たない一般の人間に伝えるのは非常に困難ではないだろうか。実際に、世間での使われ方を見ると「ツンデレ系グラビア」や「モテキャラ作り!これからはとにかく強気のツンデレ系がモテる」といったようなものや、「ツン」の部分のみをひたすら強調したものが目立つ。これはデータベースを持たない一般に対して、仮面がファッションとなったように、ツンデレという属性の簡略化が行われたとはいえないだろうか。
 「萌え」にしても「ツンデレ」にしても同様にいえることだが、マスメディアによってオタク文化から輸出され一般化したそれらは、元々の意味とは異なるものに変容している。しかし、恋愛資本主義のルールに則り、マスメディアの流布するオタク文化を忠実にトレースする新しいオタクが増えていくと、オタク文化内においても、一般化した「萌え」や「ツンデレ」の方が正しい意味として通用するようになり、本物になりかわってしまうという現象が起こりうる。実際にそのあたりの疎通の齟齬を感じている人も多いのではないだろうか。


惣流・アスカ・ラングレーはツンデレか

 以上の点をふまえ、ここであらためて「アスカはツンデレである」という認識がなぜ発生したのかを考えてみたい。アスカは上司である加持に好意を寄せていた。それを彼女は隠しておらず、作品中において何度もそれを思わせる言動をしている。対して主人公であり、いわば同僚であるシンジに対しては、外での猫の皮を脱ぎ、きつい言葉や暴力的な態度で接している。確かに「ツン」の部分と「デレ」の部分は存在している。だが、先にも述べたとおり、ツンデレとは「同一対象」に対してのギャップである。ここにおいてはツンデレが成立しているとは言い難い。しかし、データベース型の消費によって、消費者が「アスカ」というキャラクターのみを作品から抽出して消費した場合、そこには「主人公=シンジ=視聴者」という同一性が成立しておらず、シンジに対するアスカの態度も加持に対するアスカの態度も、視聴者とアスカという関係に収まってしまうのではないだろうか。ツンデレの対象は同一でないと成立しないが、消費者がアスカだけを見ているのだから、半ば一方的な押し付けではあるが、消費者の中では「ツン」のアスカと「デレ」のアスカは同居している。アスカはシンジに対してツンデレであったわけではなく、かと言って加持に対してツンデレであったわけでもなく、消費者にとってツンデレだったのだといえる。さらに、ツンデレというもの自体の変移からも考えてみたい。データベースを持たない人間に「ツンデレ」という概念が伝達するに際し、データベースなしに理解できるように簡略化がなされ、「ツン」の部分のみが強調された。この「ツン」の部分にこそツンデレを見出すならば、なるほどアスカはツンデレなのだろう。どちらの感覚も、恋愛資本主義とオタクのハイブリットである新しいオタク層に見られるものである。東によればデータベースとは共通の想像力である。彼らにとっての想像上のアスカは確かに「ツンデレ」なのだ。
 面白いことに、新劇場版においてアスカは、シンジという同一対象を持つ「わかりやすい」ツンデレになった。惣流・アスカ・ラングレーから式波アスカへと名前が変わったのは、この新劇場版において、オタクの「想像力」から生まれた「ツンデレ」のアスカを採用したために、アスカというキャラクターの同一性を保てなくなったためであり、それはつまり、岡田の言うところの「強いオタク」の死滅を象徴するものなのではないだろうか。


おわりに

 教室の隅のほうで蔑まれるのが辛いから、似たもの同士で別の教室に移動し、そこでそれなりに面白おかしく生き始めていたオタクたちは、その空間の居心地のよさを目当てにやってきた移民たちによって再び隅のほうに追いやられようとしている。恋愛資本主義から逃げた「オタク」の世界にも恋愛資本主義的な物が侵入し、それが大多数をしめるようになり、その様な恋愛資本主義的な「オタク」こそが「オタク」なんだとされるようになってしまったのだ。ではそれまでの「オタク」であり、そして「オタク」を奪われた「オタク」達はこれからどこに自らの居場所を得ていけばよいのだろうか…



参考文献

  • 岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』新潮社 2008年
  • 東浩紀『動物化するポストモダン』講談社 2001年
  • 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社 2007年
  • 本田透『萌える男』筑摩書房 2005年
  • 大塚英志『定本 物語消費論』角川書店 2001年
  • エドワード・サイード 『オリエンタリズム』 今沢紀子訳、板垣雄三・杉田英明監修、平凡社〈平凡社ライブラリー〉




  • 2020年の私的に

    もうちょっとさあ、段落分けようよ。
    とても目に優しくないです。
    要約すると「アスカをツンデレとか言ってるアホはもれなく腐れにわか野郎」みたいなことを主張したかったんだと思います。
    多分、私が人生で一番面倒くさいやつだった時期です。
    そんな熱心に理論武装したところで世界を正すことはできないし、自分の正当性の保証にはならないっていう、そういうことを知らなかった頃の話です。
    とはいえ、この頃くらいにはオタクっていう人たちのらしさというか、共通する何かで括れなくなったって印象は今もありまして、2010年当時の空気感を後世に伝える資料になるのであれば、多少の私の羞恥も価値があるものになるでしょう、きっと。
    今だったらどう表現するだろう? って想像は楽しいです。
    個別の事象を掘り下げるというよりは出来る限り全体から俯瞰してみよう、みたいな考え方は変わっていない気がします。
    あと、この期に及んで誤字脱字をチェックして直す気がない自分がちょっと好き。

    2020.06.07