積みゲー賽の河原


家族計画

DMMのセールで山田一セットが半額だったので仕入れておきました。最近痛感しますが、メディア媒体は劣化します。我が家に大量に眠る音楽CDのうち、90年代前半のものには再生不能なものが出てきており、だったら本作も今のうちDL版を、と相成った次第です。D.O.で氏が手がけたタイトル全部入りで4,000円は安いです。しかも現行OS対応版。

私事(いや、このサイト自体が盛大な私事ですけれども)ですが、学生時代に論文の題材として取り上げた程度には本作に思い入れがあります。社会文化論のゼミで、近代日本の家族形態についてその移り変わりを映す鏡として『サザエさん』『ちびまるこちゃん』『くれよんしんちゃん』に触れ、その最先端として本作と『よつばと』が現代の生き方を提示しているのだとして取り上げました。現代は血縁とか戸籍とか、そういう繋がりに拠らない相互利益による集団、あるいは物理的距離によるコミュニティの時代であるという論調で、個人化する社会を鋭く批評してやったぜ!みたいな。「俺アニメ見まくってるぜ超オタクだぜ」という変な方向に大学デビュー拗らせた目ざわり極まりない同級生を「家族計画?…あ、あぁ、あれね、名前だけ知ってるけどまだ見てないわ~」みたいにしてやったのが痛快でした。いや、これゲームですけど?までがワンセットです。
以上、余談終わり。

初めてプレイした時、寛のウザさが尋常ではありませんでした。徐々に慣れはしましたが、テキストオンリーだと伝わりにくい笑いと言いますか、『~追憶~』で比留間狂之介氏が良い仕事しすぎていると言いますか。今から無印のボイス無し版やれと言われたら、多分無理だと思います。同様に十文字隼人氏も好演です。一時期私の周りで「私はバイだ」が流行りました。主人公達が生きていく手段として高屋敷家という擬似家族を形成したように、異国の地で生きるために同胞という結束を用いたという点で、彼もまた別の形で「家族計画」を遂行していたと言えるでしょう。

冷静にプレイすると、プロットが結構雑なんです。家族計画発足後、しばしの平穏な日々でもそうですし、個別ルートに入ると時系列が大暴れしていたり。ただしそれを補って余りある勢いと力強さがあるので、全く問題にはなりませんけれども。多少荒削りでもグイグイくるのと、細部まで丁寧に作られているけどそれだけなやつと、比べればどう考えても前者なわけです。
同様にグラフィックも粗いの何の。2018年になって、ゲームとして全く進歩していないといわれるこの業界ですが、いやホント進歩したなあとしみじみ。この大味さは、これはこれで良い。
しかし主題歌、BGMはむしろ現代を凌駕しているからまたすごい。さすがは全盛期のI've soundといったところでしょうか。このいかにも打ち込みな電子音が良いのです。主題歌の「同じ空の下で」もKOTOKOの代表曲の一つに数えられますが、KOTOKOの歌うこのOPの作詞をMOMOが、MOMOの歌うED「philosophy」の作詞をKOTOKOが、なんて遊び心も実に良い。つまり高瀬一矢は変態的な天才だということです。

生きるという事。大抵の人は普段漫然と生活し、自分が今生きているという事を改めて認識するなんて機会はそうそう無いと思います。歩く時に右足左足をいちいち意識しないように、息をするのに吸って吐いてを意識しないように、生きているという状態に対して人は実に無意識的です。何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんてそんなのは嫌だ!なんて歌わせるアンパンマンは、幼稚園児にあまりにも高すぎる要求をしているのです。そもそも、その生きているという実感ですらあまりにも希薄にすぎて、夜な夜な殴りあうことでしかそれを確かめられなかったのが『ファイトクラブ』でしたし。
主人公の司もギリギリの暮らしで、ある意味ではその日その日生きているという実感とともに生活しているように見えますが、それは生物的に生きているという状態を維持しているだけに過ぎないのです。それを象徴しているのが本作屈指の名台詞「人は一人でも生きていけるけど それだと、生きていくことしかできないんだ」となります。かつて野生動物がごとく、自分ひとりで完結した生を望んでいた男が、変われば変わるものだなと。司が人間的な生き方、喜びに目覚める姿を通じ、生きるってどういうこと?と問いかけてくるこの力強さが、本作を名作たらしめる根っこの部分だと思います。決して基地外大集合物語ではないのです。

かつての司の姿、野生動物がごとく一人で完結しようとする姿に、どうしても東浩紀の『動物化するポストモダン』で描かれるオタク像を連想してしまいます。人は欲望の生き物です。ここでいう欲望とは他人から欲求されることを望むこと、つまり羨ましがられたいという事です。これは他者がいないと成り立たない、社会に属しているからこそ得られるものです。一方で欲求とは自分ひとりで完結できる、例えば食欲であったり睡眠欲であったりするものを指します。当時東が指摘したオタクの姿は、自分ひとりの趣味の世界で完結している、すなわち欲求とその充足で成り立ってしまっているものであり、それを指して東は「動物化」と呼んだのです。
司が動物から人間へ、欲求から欲望へ、個人から社会へ、変わっていく姿はユーザー達に他者を求めよと訴えかけているのか、あるいは締め切りと戦う過程で無理やり捻り出された物なのか、今となっては知れませんが。

さて、ほぼ脱線しっぱなしのまま落としどころを完全に見失った本稿ですが、強引に結論するならば本作はゼロ年代前半における傑作のうちの一角だと言いたいわけです。二次元創作物の最前線がまだアダルトPCゲームという媒体にあった時代、奇作怪作玉石混交たくさんございました。過度にテンプレ化が進んでいなかった分、わけのわからないものが多かった印象です。初期のPSみたいなもんです。まあ、その手の昔は良かったなあ的論調でもって、それにひきかえ最近のタイトルときたら~なんて話をしだしたらこの手のサイトを運営をする人間としては終わったも同然なのですが、本作のリメイクを目の前にすると、その世界に確実に片足は突っ込みつつあるよなあと、思わず感じる一本です。


2018.05.30