この世の果てで恋を唄う少女YU-NO 感想

本当はPC98版を動かしたかったのですが、私のwindowsではエミュレータを使っても起動はおろかインストールすら不可でしたので、結局『エルフ大人の缶詰』に同梱されていた復刻版でプレイしました。
復刻版でも対応がwindows98までってあたりに時代を感じます。
時代を感じるのはプレイ環境だけではなくて、例えば音源。
最近では実際に楽器を用いての生音というのが珍しくないようですが、この時代ではもちろん電子音です。

音自体は昔の携帯電話みたいに安っぽいくせに、印象に残るBGMが多いです。
サントラが欲しいところですが、どう考えても入手は難しいでしょう。
また絵柄も、古き良き匠の技を感じます。
ドット絵のくせにどうしてこんなに肉々しいのか。
明らかに一時代前のものなのに。
環境が乏しいからこそ発達する無駄技術ってあると思います。
(褒め言葉)前世紀末のゲームCGって、今考えるとホントすげえです。

システムと物語の融合が素晴らしいです。
まずシステムが先にあり、そこに物語が付随する形です。
この点において、本作は紙芝居と揶揄される類のADVではなく、絶対的に「ゲーム」でした。
世のゲームを見渡すと、世界観・キャラクター・物語etc.……いろいろな構成要素から成り立ってはいるものの、それらの要素を使って何をしているかといえば数字の足し引きなのです。
格闘ゲームはHPを、経営SLGはお金を、育成SLGは能力値を、足したり引いたりする作業が根っこにあります。
その作業をいかに面白く演出するか、というのがゲームの一つの本質のように思います。
つまり、まずゲームとしてあるべきはシステムなのです。
どんな数字の足し引きがあるか、それが先にあって、ではそれを以下に面白くしていくかという段になってようやく、世界観とか物語とかそういうものが出てくるのです。
本作の場合、この足し引きにあたる部分がA.D.M.Sです。
途中でセーブできるだけのADV、ということであれば何も珍しいものではありませんが、ここにマッピング機能を搭載したことで、本作はただのループモノからは一線を画するものになっています。
いわゆる「ルート」のどこにいるのか視覚的にわかるこのシステムを利用し、時空を超えて移動する、これはゲームをプレイするプレイヤーの視点です。
ゲームを動かすディスプレイの外で本来展開していた攻略の過程を、ゲームシステムとして取り込んでしまったのです。
このゲームとしての前提があるからこそ、システムと物語が不可分な関係を保てています。
そのあたりは東浩紀が『動物化するポストモダン』の中で嫌というほど触れてます。
興味のある方は是非一読を。
読む価値はある一冊です。

驚くべきは、この壮大な宝玉集めのマップ移動が序章に過ぎないというところです。
タイトル的なところから考えると、宝玉を全て集めた後の異世界編こそが本編と考えるのが適当でしょう。
そしてそこで父の謎、異世界の謎、プロローグで現れた美女の謎等々が明らかにされるわけです。
エンディングまでいって、タイトルの意味がしっくりきたときの感慨はすさまじいの一言に尽きます。
体の奥底からぞわぞわと這い上がってきた形容不能な感情に、人間の言葉というのは、巨大すぎるものの前ではあまりに無力だと実感します。
また、異世界編は、分岐がプロローグ時の選択肢方式に戻り、エンディングまで一本道なことも相まって非常にスムーズに進行します。
現代編の、ルートマップではどちらに進めばいいのかわかっているにもかかわらず、どこでイベントを起こして進めばいいのかわからない、という事態が発生しません。
確かに進みやすくはなりましたが、これはこれで少し味気なさを感じてしまうのだから人間って面倒です。
噂では、菅野氏がこちらも何かしら仕掛けを施したかったものの、製作期間、予算の都合で泣く泣く断念せざるを得なかったとか。

約30年の歴史の中で、年数だけで見れば中期に当たる作品ですが、ADVゲームの「遊び方」を発見したという功績、後の作品に与えた影響という点で考えれば、ADVにおける可能性を切り開いた作品だと言っても過言ではありません。
(それだけに、現在主流のADVが完全に紙芝居と化しているのは残念ですけれども)ただ物語を読むだけ、操作性に乏しいというADVというジャンルについての認識を改めさせられる一本でした。