ブスにも生きる権利はあるが、義務は無い

たまに街中を歩いていると、内股歩きの女性をしばしば見かけます。
女の子らしくてかわいい!なんてなるはずも無く、むしろどうして人体の構造を無視した歩き方をしているのか不思議に感じます。
しかしながら、女性の美の文化について変遷をたどれば、その文化を共有していないと全く理解できないものも多々あるわけです。
例えば、中国の纏足。
幼い頃から足を布で固定し一定以上に成長させなくするという、やはり現代の我々から見ればイマイチピンと来ない美の文化です。
同様にエチオピアのムルシ族の女性は、下唇に穴を開け木や土を焼いて作った皿をはめ込みます。
この皿が大きければ大きいほど美しいとされます。
ここまで特長的な例でないにしても、この地域では太った女性が好まれる、髪の薄い男性の方が魅力的だとされる、みたいな差は散在しています。
そして彼ら(あるいは彼女ら)から見れば、私が感じる女性の美も不思議なものに映るはずです。

そういうわけで、やたら内股な女性達も、きっと何らかの美の哲学に基づき美しい私を実現しているのでしょう。
女性の美しさはそれを美しいとする文化に支えられており、時にそれは日常生活や健康に支障をきたすような制約にさらされるのです。
そう考えるとなるほど内股を、女性らしい、美しいとする文化もあるのかもしれません。
たとえそれがどんなにブスであろうとも、自分を変える努力次第で美しくなれるのです。
ブスだって何だって、みんなみんな生きているんだ、友達……なのかどうかは別問題ですが。